教訓としての山岳事故

登山は、山頂まで登頂した時の達成感と、その道程に必ず幾多の危険が伴う。どんな登山者にも起こりうる事象として、また教訓として語り継がれていくべき日高山脈の過去に起きた悲惨な3つの事故について紹介する。

福岡大ワンゲル部ヒグマ事故

DATA日時:1970(昭和45)年7月25〜27日
現場:カムイエクウチカウシ山
死者数:3人

1970(昭和45)年、福岡大学ワンダーフォーゲル同好会(以下福岡大ワンゲル部)の夏季合宿の地に日高山脈が選ばれた。ワンゲル部のメンバーは5人。日高山脈北端の芽室岳から13日をかけて、山脈中部に位置するペテガリ岳を目指す予定だった。

7月14日、芽室岳の登山口からルベシベ山、ピパイロ岳、戸蔦別岳、幌尻岳と南下。

23日、戸蔦別岳と幌尻岳を結ぶ尾根下に広がる七ツ沼カールに到着した一行は、残りの日数と食料を考えて、ゴールに設定したペテガリ岳手前のカムイエクウチカウシ山で合宿を打ち切り下山することを決めた。

25日、エサオマントッタベツ岳に到達し、春別岳の南側にある九ノ沢カールにテントを設営した。午後4時30分頃、5人は全長2メートルほどのヒグマの姿を初めて目撃する。

最初のうちはテントから離れたところで様子をうかがっていたが、徐々に接近し、テントの外に置いていたリュックサックを破いて中の食料を漁り出した。危機感を覚えた5人は隙を見てキスリングをすべてテントの中に入れ、火を起こし、ラジオの音量を上げて食器を打ち鳴らすとヒグマはいったん退散した。しかし、午後9時ごろ再び現れ、爪でテントに穴を開けたあとまたどこかに去っていった。その夜はクマの襲来に備え、2人ずつ交代で見張りをした。

26日の朝4時半ごろ、再度姿を現したヒグマはテントの入口を爪で引っ掻きはじめた。テントは破られてしまい、5人はいっせいに外に飛び出して逃げた。50メートルほど離れた場所から振り返ってみると、ヒグマはテントの近くに居座ってリュックサックの中の食料を漁っていた。

 福岡大ワンゲル部リーダーは、ハンターの出動を要請してくるようメンバーの2名を下山させた。残った3人はヒグマを警戒しつつ、リュックサックを回収した。

ハンター出動要請に向かった2人は、途中で北海道学園大学の登山部員たちと出会った。彼らもまたクマに襲われたため、下山する最中だった。2人は、ハンター出動を要請を依頼し、再び引き返して午後1時ごろ3人と合流した。合流した5人は、1時間ほど稜線をたどったところで、テントの設営に取り掛かった。

午後5時10分ごろ、再びヒグマが姿を現した。慌ててテントから逃げ出した5人は、カムイエクウチカウシ山方面への縦走路を50メートルほど下りしばらく様子をうかがっていたが、ヒグマはテントに居座り動く気配がなかった。そこで、日中に確認していた鳥取大のテントがある八ノ沢カールへ下り、助けを求めることにした。

稜線から60~70メートルほど下ったときに、あとを追ってくるヒグマを見つけた。最後尾を歩く1人の後方10メートルにまで迫っていた。いっせいに駆け出した5人はハイマツ林のなかで散り散りになったが、3人は合流し岩場に隠れて一夜を明かすことにした。

散り散りになった1人は、ヒグマに追いかけられたため必死で逃げ、テントを見つけてその中に逃げ込んだ。しかし中には誰もおらず、シュラフに入りそこで救助を待つと決めた。

もう1人はヒグマに追いかけられているのを目撃されていたが、その後の消息は途絶えていた。

27日朝。ガスが濃く、視界は5メートルほどしかない。岩場に避難していた3人は、8時から行動を再開して下りはじめたが、15分ほど移動したところでヒグマが現れた。「死んだ真似をしろ」と叫び、3人は地面に身を伏せた。ヒグマが唸り声を発すると同時に1人が立ち上がり、カールへ向かって逃げていった。ヒグマはすぐにそのあとを追いかけていった。残った2人は山を下り、なんとか無事に山麓までたどり着いた。

28日。天候不良のためヘリは出動できなかった。ハンターや山岳関係者が入山し、捜索拠点となるベースキャンプが設置された。

29日。捜索・救助活動によって、消息不明となっていた3人は八ノ沢カールで遺体となって発見された。遺体はいずれもヒグマの襲撃を受けて損傷が激しかった。夕刻、現場付近に姿を現したヒグマはハンターによって射殺された。20発以上の弾丸を受けても倒れなかったと記録されている。ヒグマは4歳の雌と推定され、体重は約130キロだった。

日高山脈山岳センターには、現在もそのヒグマの剥製が展示されている。


コイカクシュサツナイ岳 雪崩遭難事故

DATA日時:1940(昭和15)年1月5日
現場:コイカクシュサツナイ岳
死者数:8人

1940年(昭和15年)1月5日、ペテガリ岳を目指した北海道大学山岳部9名が、コイカクシュサツナイ岳直下の五の滝付近で、雪崩に遭遇。参加パーティー8名が死亡した。

コイカクシュサツナイ川沿いを遡上していたパーティーを標高1260メートル付近で雪崩が襲い7名が巻き込まれた。7名はすぐに救出されるが、その直後に発生した大規模な雪崩に8名が巻き込まれた。助かった1名は下山し救援を要請。冬の捜索は難航し7名を発見した時点で一旦打ち切られた。残り1名は7月になり発見された。


札内川十の沢 北大学山岳部雪崩遭難事故

DATA日時:1965(昭和40)年3月14日
現場:札内川十の沢
死者数:6人

1965年(昭和40年)3月14日に北海道大学山岳部(沢田義一リーダー)6名が日高山脈札内川上流の十の沢付近で大規模な雪崩に遭い遭難。6名全員が死亡した。

1965年3月11日、北海道大学山岳部の6人パーティーは沢田義一をリーダーとして、札内川十ノ沢より、カムイエクウチカウシ山、神威岳、幌尻岳を伝って、24日に戸蔦別川から八千代へ下山する計画であった。

12日は札内川を遡行し、13日は雪が降り続く中を十ノ沢の出合まで進み、川床から約3mほどの高さにあるテラス状の場所に雪洞を掘り野営した。14日未明に大規模な雪崩が発生し、雪洞の中、沢田リーダーを除く5名は就寝中のまま即死(推定)、口の回りにわずかな隙間があったため沢田リーダーは即死を免れた。遺書によると雪洞の中4日間、生存してたと見られている。ナタを使って脱出を試みるが、力尽き雪洞内で亡くなった。

雪崩の危険があるため捜索は難航し、何度かに分けて捜索活動が続けられた。雪解けが進んだ6月13日に雪洞が見つかり、沢田リーダーの遺体が発見された。17日には残る5名も雪崩が襲った時の就寝中のままの状態で発見された。

沢田リーダーのポケットには雪崩の下で綴られた「雪の遺書」が残されていた。その内容は、今まで育ててくれた両親への感謝やメンバーへの謝罪などが記されている。

日高山脈山岳センターには、その「雪の遺書」(原文の複写)と彼の遺品が展示されている。

 


参考文献:

『日本クマ事件簿 ~臆病で賢い山の主は、なぜ人を襲ったのか~』
『北海道日高山脈夏季合宿遭難報告書』(福岡大学ワンダーフォーゲル同好会パーティ)
『山と溪谷』1971年6月号、7月号 「恐るべきヒグマ——カムイエクウチカウシ山の遭難から」
『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』(木村盛武著 文春文庫)